「牧師の思い」というプリントを出していた頃、その最終回で教会の収入源について書いた。主な源は2種で、礼拝献金と月定献金。月定献金は会費的性格を有していて、これが堅調だと教会を支える意識が高いとみて良いのではないか。一方礼拝出席者が献げる礼拝献金(こそ)が礼拝の活き活き度=教会の活き活き度を示す指標になるのではないか、と。
この月定献金と礼拝献金の比率は四谷新生教会で4:1。だけどこれにCS礼拝献金が加わると3:1まで礼拝献金の比率が上がる。活き活き度が上がっているということ!
教会の活き活き度なんて、いろいろなことを加味して考えるべきではあろうけれど、子どもたちが大人たちを連れて礼拝に出席していることが、数字だけでなく実際の感覚=感情の点でも相当活き活き度を上げていると言い切って良いのではないだろうか。
となると、ここでもわたしたちは大きな発想の転換が求められているように思う。つまり、教会にとって「子ども(とそこに繋がる大人たち)」は伝道の対象者ではなく、むしろ教会のオピニオンリーダーであるという発想。子どもたちは子どもたちであるだけで常に教えられる存在に固定される必要はない。むしろ子どもの方が教える存在であり得るのは、幼稚園の現場の日常が雄弁に物語っている。そのありようは幼稚園とか学校とかに留まらないだろう。むしろ社会全体と、その相似としての教会の日常でも充分起こり得ることではないか。
だとすれば、彼らに「キリスト教を教える」という姿勢ではない礼拝が形成されなければならない。聖書を読み、そこから得たインスピレーションを分かち合う、そしてその分かち合いが、今から扉を開けてそれぞれのいのちの場に持ち運ばれて、その現場を叩きあるいは叩かれして、生きた言葉が次の礼拝に返ってくる。語る者も聴く者も、そうやって活きた言葉で生かされる。
あれ? CSに限ったことじゃなかったわ。